星たちは雨のように、音もなく、降り続ける



スターとレイン、君の声



 世界は目まぐるしく回るものだ。
朝起きれば、どこかで殺人が起きたなどというニュースが流れる。
そんなことも露知らず電車はいつも通りに走り続け、昼には猫も飯を食う。
交差点の人々に押されるままに、気が付けば夕方がやってくる。
どこかの火事が収まった頃に、次の朝にはまた新しい日常的な殺人ニュースが放送される。
ため息を吐けば、次の瞬間には消えている。そんな世界だ。

 その次の瞬間を刻むように、瞬きした。また朝がやってくる。
そんな日々を飽きずに回る世界の中にいる僕らは、まるで滑車に乗ったネズミのようだ。





「おい!」

 後ろから肩を強く掴まれたその時に、僕はようやく彼の存在に気が付いた。
振り返る瞬間に、突然目眩がした。
彼は咄嗟に掴んだままの僕の右肩と、左肩を支え、僕が倒れるのを防ぐ。
覚束無い足を付いて、僕は何とか体勢を整えようとしたが、上手くいかなかった。
僕は彼に全体重を預ける形になり、一方の彼は不安定な支えを維持できなくなった。
それでも、彼は僕が地面に倒れこまないように僕の両肩を持ち上げて、ゆっくりと僕に膝を着かせて座らせた。
僕の両肩を持ったまま、一緒に彼も方膝を付く。
彼の心配そうな顔を余所に、僕の目眩は収まりそうにない。

「Hey, どうしたんだ。どこが悪いんだ?」

 片手を顔に当て俯いた僕の顔を、彼が覗きこむ。
告げたくもない病状を報告する前に、頭痛と強い動悸に襲われて、口が開けなくなった。
口から出るのは繰り返す深い吐息だけだ。
そのうちに、だんだんと息が苦しくなった。
息を吸っているはずなのに、酸素が肺に入ってこない。
心臓に手を当てると、張り裂けそうに鼓動する生々しい動きを感じる。吐き気がした。

 「しっかりしろ!」彼の声が、曖昧に僕の鼓膜に響いた。
重力すら曖昧になって、僕は自身の体を支えられなくなった。
彼の方へ倒れこむ。
彼の体の形と、声を、微かに感じた。





 僕の立つ場所に、星空が降ってくる。
閃光するそれはまるで、ダイヤモンドダストのようにきらきらと輝いて、雨のようにすっと地面へ降り注ぐ。
天の川にいるようだ。
けれど僕はどちらの陸にも上がれない。
どちらの場所にも行くことができない。
所詮は中途半端な存在だ。人間も同じだ。僕と同じだ。見て見ぬふりする。
そんなことにも気が付かない。

 流れ星は黙々と地面に落ちる。
そこには当然のように音などない。
しかし、僕にはそれが寂しく写った。
けれどそうせざるを得ない星たちは、哀歌を奏でるように、線をえがき、閃光を音符にして、そして消える。
足元は奏で損ねた音色でいっぱいだった。
しかし、そこには音などなかった。
音という存在すらも、し得なかった。





 瞬きすると、向こうに無地の板が見えた。
無機質な天井だ。
あの星空は夢だったのだと、この時ようやく気付く。
ほとんど思考できない頭で、ここはどこだ、とだけ口に伝えることができた。

「シャドウ、目が覚めたか。ここはオマエの部屋だ」

 彼の声が少し遠くで聞こえて、僕の意識が目覚め始める。
 ああ、ここは僕の部屋だ。
GUNが兵士に提供している部屋。僕にも与えられた。
僕には部屋の作り方が分からないから、僕の部屋には、既に支給されていたベッドと机と椅子と、
報告書を書くためのパソコンしか置いていない。
まるで生活感がない部屋だと、誰かに言われたことがあった。
興味ない、とだけ返した覚えがある。
今思えば、生活に服従されている僕らが、今更生活を我が物と謳歌するなんて馬鹿げた話だ。

 僕は、ベッドに寝かされていた。
ぼんやりした頭は体の信号を放り出し、僕の体はまるで置物のようだ。
 声の主は、あの時僕に声をかけた彼、ソニックだ。
彼が僕をここまで運んでくれたのだろう。
彼の声には、既に心配や驚きの音はない。
僕の体はどうやら大丈夫なようだ。

「いきなり倒れるからびっくりしたんだぜ。ずいぶん疲れていたんじゃないか?」

 ソニックはそう言いながら、椅子をベッドのそばに置いてそこに座った。
僅かに顔を動かせば、彼の青と、緑色の彼の瞳が見える。
彼は、やれやれというように眉を寝かせて、しかし優しさを灯した目で僕を見ていた。
 僕は鋭い目で、彼を見た。
彼は僕を少し見くびっているのではないかと、何故か怒りすら感じた。
 そう、疲れなどあろうはずがない。疲労など15分も寝れば、身体中から全て抜ける。
例え腹を貫かれようと、3日もあれば、まるで何事もなかったかのように全て再生する。
僕は究極生命体だ。そういう身体になっている。

「…よけいな、世話だ」

 上体を起こした。
いつもなら睡眠後回復するはずの体の重さを、ずっしりと感じる。
何故だ、おかしい―その途端に、あの時のような、地面がぐるりと反対になったような目眩を感じて、僕は思わず頭をおさえた。
目を閉じても、暗闇の中がぐらぐらする。
「バカ、寝てろ!」半ば怒りながら、ソニックは僕を無理矢理ベッドに押し付けた。

 こんなことは初めてだった。
どうしたことだろうか。
僕の記憶に、この体調不良の原因を探すが、何度思い起こしてもそれらしいものは見当たらない。
持続性の不調に耐性がないからか、酷く具合が悪いように感じる。
肺に溜まった不調を吐き出すように、深く息をついた。

 その様子を、ソニックはじっと見ていた。
視線には気が付いていた。
先ほどの優しげな目は一変して、それは刺さるような、焼き付くような視線になっていた。
心の奥深くまで探られるようだ。
だから僕は、彼の視線に気付いていても、迂闊に口を開きたくなかった。
だが彼のことだ。そのうちに彼から言の葉を伸ばす。

「…まだ目眩はするか。どこが悪い」

 彼の声にいつもの明るさは無く、トーンが低いものだったが、やはり僕の予想通りだ。
しかし彼が伸ばしたのは、話の切り端だけではない―僕の予想していないことに―彼は手を伸ばして、
布団の中に隠れていた僕の手を取り、彼の両手で包み込んだ。
僕は少し驚きの色を混ぜて、その様子を見た。
僕のリングの弾く輝きは、いつもよりも鈍っている。
自然治癒力を高める為に、リミッターは普段より僕の力を抑える効果を弱めているのだろう。
 そして、彼の手は暖かかった。
逆を言えば、僕の手は、まるで死人のように酷く冷えきっていたのだった。

「倒れるまで、オマエはどこに行ってたんだ」

 彼の声のトーンは、また平坦になっていた。
やっと目眩のなくなった景色で、彼の顔を見れば、そこには色がない。
無表情だ。
しかし瞳のその奥は燃えるようにチリチリとした熱いものがある。
その彼の目線は一点に、僕の手に集中していた。
穴が開くほど、真剣に見つめている。そこには声がない。
 彼の問いに僕は答えないまま、しばらく沈黙が続いた。
ようやく空気を揺らしたのは、彼だ。
彼は僕の手をぎゅっと握り、上へ掲げて、僕に見せるようにしたのだ。
彼の握る力は強く、まだはっきりしない意識でも、ジリジリと痛みが伝わるほどだった。


「これは何だ」

 彼の声が、低くはっきりと響いた。
初めて彼の音に、隠れていた怒りが混じる。
 僕は、彼に上げられた僕の手を見た。
手首の赤と黒の飾りに少し隠れたところから、腕の間接まで、一筋の線が見えた。
赤黒い線。
塞がりかけているが、それは傷だった。
数時間かけても完全に消えていないことが、それの傷の深さを物語っていた。

 ここでやっと、僕は体調不良の正体に気が付いた。
出血多量による、酷い貧血だ。
立ち眩み、目眩、頭痛、動悸、全てがこれの症状に当てはまる。
今でも目眩が伴うということは、まだ血液が足りていないのか。相当血を失ったようだ。

 ああ、そうだった―― 僕は先ほどまで見当たらなかった記憶にアクセスした。
確かに怪我をした、勿論痛みもあった。
気付かなかったわけではない。気付いていたのにも関わらず、僕はそれを放置していたのだった。

 そして彼が突然、悲しげに言い放った。


「自虐的に、なっていたんじゃないのか」



 心臓を突き刺すような衝撃を受けた。
あまりの衝撃に、僕は瞳に濃く驚きが混じるのを隠しきれなかった。
心臓の強い鼓動が収まらない。僕が知らない場所で、身体中が、その『図星』に恐れおののいていた。

 この傷は、勿論、僕がつけたものではない。
別に僕が僕自身を、いわゆるリストカットをしたわけではなかった。
しかし、僕の心臓は、それに近いものを感じていた。
偶然傷がついた。偶然、そこから血が出た。
たったそれだけの何でもないものに、僕はひそかに意味を感じていた。
わからない。
だが、僕の体の傷の痛みに、僕は、快感に近いものすら感じていたのだ。
 だから、血が流れるのも気にならなかった。
痛みがあるのを、血が流れているのを、むしろ良しとして、僕はそれを放置した。


 僕の心の中にとぐろを巻いた黒いものが、形になって流れてくれるような気がして。



 「そうかもしれないな」と、僕は何故かその時初めて、彼の問いに答えた。
彼は一時僕の顔を見て、それから握っていた僕の手を下ろし 再び先ほどのように両手で包んだ。
重い沈黙が続く。
彼は目線を横に逸らせて、考えるように、しばらく僕の手をふと握ったり、撫でたりしていた。
彼の目は、少し戸惑っていた。
同時に、申し訳なさそうな、悲しげな、まるで彼が全て悪いかのような顔をしていた。
何故彼がそんな表情をするのだろうか。彼は何も悪くない。

 「オマエはどこに行ってたんだ」と、彼は再び問うた。
彼の声に、既にあの爆発しそうな怒りはない。
代わりに、それは彼の今の表情と同じような色を宿していた。
彼は僕の身を、心を案じていた。
心から。
彼の気持ちは、耳から、頬から、その手から、身に染み込むように感じ取れた。


 僕は自然と話を繋いでいた。「GUNからの任務があった」。


 紛争に近い、激しい争いが勃発している地域があり、それを止めてこい、というような任務だった。
その任務は特別危険なものではなかったし、いつも僕に寄せられるものとそれほど変わるものではなかった。
 僕は朝方からそちらに飛んだ。
 僕の他にも兵士が多数集まっており、僕はその人たちと争いの仲介に入った。
極力、武力は使わないようにというGUNからの命令もあったが、
しかしそれ以前に、僕らが下手に武力という国力を振るえば、
それは争いを抑止するどころか、油に火を注ぐ事態になりかねないことは、既に承知していた。
だから、僕らはできるだけ武器を使わないよう努めた。
 しかし一方で、怒りで前が見えていない紛争の渦中にある人々は、
その手に銃やら棍棒やらを握らせて、目の前にいる人間を片っ端から攻撃していた。
そんな人々に囲まれていた僕らは、勿論、圧倒的に不利な状況に置かれていた。
しかし、それでも僕らは、生命の危機に立たされない限りは武器を使えない。
僕らは武力の代わりに盾やその類いで、彼らを、それこそ仲介する他に術がなかった。

 だが、そんな任務など、僕にとっても他の兵士にとっても、最早日常茶飯事だ。
そのうちに、事は丸く収まる。
人を殺してしまった人たちは捕らえられて警察署へ、怪我をしたものは病院に。
騒ぎが終息し、人の狂った声が無くなれば、任務は完了だ。
たったそれだけだ。


 そのようなことを一通り話して、僕は口を閉じた。
彼は黙って僕の話を聞いていた。
僕が話をやめても、彼は沈黙を守ったままだ。
まるで、僕に話を続けろとでもいうように。
だが、僕にはもう話すことはない。それだけだ。それ以外には何もない。

 彼がついにその固い口を開けて、「他には何かなかったのか」と尋ねた。

 僕は、上体を起こした。
もう目眩はない。失われていた血は生成されたようだ。
彼は少しだけ心配の色を顕にしたが、それも無駄な徒労だと気付いたようだ。
あの体調不良がまるで無かったかのように、体は随分と回復している。
 これが僕の体というものだ。
僕の脳は、血管は、心臓は、正常に、究極生命体として機能している。
どれだけ深い傷を負おうが、どれだけ内蔵を破壊されようが、僕の体には何の支障にもならない。
どれだけ、血を流そうとも。

 どれだけ死に近づいても、生きている。


「ひとが、死んだ」

 彼の質問に、僕は答えた。


 GUNの兵士に、一人、ある男がいた。
若い男だった。
彼は気さくで、明るく、誰にでも好かれるような性格だった。
 彼は僕にさえ親切を分け与えた。
奇異な目を向けられやすい僕に、一人のにんげんと接するように、平等を象徴する瞳で僕を見た。
僕には人間に対する興味はあまりないが、しかし僕にとって、彼という存在は少し驚きだった。
 任務前には、頼んでもいないのに、僕にガムというものをくれた(悪くない味だった)。
僕が怪我をすれば、誰よりも先に僕の安否を案じた。
 彼は親切を断る隙を作らせないのが特技のようだった。
お陰で、僕は彼に随分と借りを作らせてしまった。
それを返すために、僕は彼のお気に入りのガムを、何個か缶ごと彼にあげた。
任務中には、数回彼を助けた。
それでも、僕の手元には借りが貯まる一方だった。
嫌な気はしなかった。むしろ僕は、密やかに嬉しささえ感じていたかもしれない。
僕は、いつの間にか彼に心を許していたのだ。
 彼との付き合いは長くなりそうだった。
だから、そのうちに、全ての借りを返すつもりだった。

 そして彼は死んだ。瞬きの、たった一瞬だった。
血を流して死んだ。銃弾を心臓に一つ埋め込まれて。
僕が駆け付けたときには、もう遅かった。


 ひとが死ぬのも、最早日常茶飯事だった。
僕にとっても、彼らにとっても、一瞬に命を取られた彼にとっても。
取り立てて騒ぐ必要も、悲しむ必要もない。
そういう危険を承知で、僕も、彼らもそこへ行く。
仕事という建前で、人を助けるという嘘をついて、

 ただ、生きるために。




「どうして、」

 僕の心臓が、血液を送り出すと共に、言を吐き出させた。
妙に早く鼓動する心臓だけを感じた。
もう回復したはずのそれは、何故だかきつく絞められるように、痛かった。

「どうして、……」




 彼女もその一人のように感じられた。
彼女は生まれつき生きづらい体を持っていた。
けれど彼女は、毎日あの方舟で青いこの星を見ていた。
毎日、彼女は笑ったり、怒ったり、悲しんだりしていた。
毎日、彼女は死を背にしながら、生きたいと願っていた。
 そしてその日はやってきた。
生きたいと願った彼女は死んだ。
生きるために、彼女は死を得てしまった。

 彼もきっとそうだった。
死を隣り合わせにして、それでも彼はその場所にいることを選んだ。
毎日、彼は誰かの生を願った。
毎日、誰よりも、己よりも人を愛し、その為に闘いを選んだ。
それは彼自身だった。彼が彼として生きるために生きたのだ。
 そして今日の一瞬を迎えた。
人間の生を願った彼は死んだ。
誰かの生を得るために、彼は死を得てしまったのだ。

 生きるために死を選ぶ。生きるために死を得る。
どれだけ生を願っても、ふとした瞬間に生活に殺される。
これを聞いた人はバカだと言って笑うだろう。
だってそれは、誰もが知っていることだ。余りに些細なことだ。余りにも日常的だ。

 そして、余りにも、それは酷く不条理だ。



「どうして、僕らは生きるために死ななければいけないのだろう」





 彼も僕も、何も言わなかった。
僕の手を包んだ両手を動かそうともせず、ただ、彼は体ごと沈黙した。
言葉を失った様子もない。彼の目線すら感じない。
まるで時が止まったみたいだった。

 部屋はしんと静まり返る。
だが時計の針は変わらずチクタクと音を鳴らして、一瞬一瞬を刻んでいた。
僕の耳の内側では、僕の鼓動の音が響いた。
それは一瞬一瞬を、時計と同じように、僕がここに生きている音を刻んだ。
鬱陶しい。
おまけにそれは内臓まで強く締め付けるから、敵わない。

 僕は胸に空いている片手を当てて、それを握り潰すように、その手をギリと握った。


 この音に、まるで意味なんかないのに。

 

 

 




「ここが痛いのか」

 彼が、凍った時を動かした。
僕の手を包んでいた手の片方を、彼は僕の胸で握った手に寄せた。
上から包み込むように添える。
僕は密かに、自身の鼓動が伝わることを恐れたが、
彼はむしろ、僕の心臓の音を探しているようだった。
僕の日々を、生活を刻む音を。その一瞬に痛む僕の心臓を。
そして、その内側にきっとあるだろう、本当の傷口を。

 僕はしばらく、その彼の手を見ていた。
手袋越しに伝わる暖かさは、昔感じたそれと、最近与えられたそれと似ていた。
もう感じることのない、もう僕には触れることすら叶わない、暖かなはずだったそれと。

 僕はやっと長い沈黙に気が付いて、ふと彼の方へ目をやった。
彼は僕の手・彼の手と、そこに隠れた僕の胸を見ていた。
海の底へ沈み混むように深く、深く考え込んでいるようだった。
彼のエメラルドの瞳は、沢山の感情を反射しながら、鈍く、清明に輝いている。
彼は目を閉じ、長い瞬きをして、それからゆっくり、海の水を掬い上げるように目を開けた。

「ああ。大切な人をなくした時、どうしても、どうして、って言いたくなるさ。
 オレたちの性だ、仕方ないさ」

 彼は何かを思い出すように、言葉を舌を伝って流した。
 彼は沢山の生活を築いてきた。
きっと彼の沢山の生活の中には、生活に飲まれていった誰かの一部が刻み込まれている。
英雄であるが故に。彼が、彼であるが故に。

「『どうして』の先を、オマエは知りたいんだろう?」

 言い終わる前に、彼がこちらを向いた。彼自身の瞳が、僕を見る。

「……意味なんかない」
「どういう意味だ?」

「……
 僕らがそれに意味を探し出せたとしたら、それは、フェイクだ」

 伏せた瞼は、僕の顔を俯かせた。
 それは僕らの意味付けにしか過ぎず、彼らの真意ではない。
きっと彼も知っている。
その真意など分からない。真実など。何人も、永遠に、理解し得ない。

 「Yap」、彼もまた目を伏せて、
しかし僕の胸で握った手の力を解すように、彼はその手を優しく握った。

「オレたちが唯一わかってることは、」
 彼は息をした。
「オレたちはこれからも、生きてくってことさ」

 気が付くと、彼のグリーンが、僕の瞳を捉えていた。
一度目が合って、僕は視線を外せなくなった。



「それじゃあ、オレたちには何ができる?」



 彼の些細な問いに、僕の心臓が小さく跳ねた。
彼らとその事実に、過去に目を向けて、自分が何をすべきか、この今、僕らはどうするべきか、
それは、僕は僕が決別して見出だしたものだった。
僕が、そうやって生きていくと誓った。
過去に囚われず、今を生きていくと誓ったはずだ。

 「今、僕らに……」

 しかし、それは最早僕にとっては過去から解放される鍵とはなり得なかった。
だから僕は、過去の事実に捕らわれたのだ。
今、この一瞬に何をするべきなのか、僕には分からなかった。
死者に対する恩返しを、借り返しを、償いを、
生者は、僕はどうすればいいのか、どうしても答えが見つからなかった。

 そして僕は、言葉を繋ぐことができなかった。
重くのし掛かる沈黙が、僕の鼓動を破裂させるように急かした。
処理できない今が重なりあって、そして僕を責め立てた。
じっとこちらを見つめる彼の視線が、刃物のようだ。
彼の目を見るのが耐えられなくなって、逸らすと、胸の手をぎゅっと握られた。
『逃げるな』と。
彼の手は熱く、しかし僕を見守るような温かさがあった。

 僕は目を上げる。

「アイツらの分も生きるか?」

 目が合うタイミングで、彼が尋ねた。
 よく人が言う言葉だ。
生きている者は、死んでしまった人のために、その人の分まで生きるのだと。
しかし僕には、それができると、微塵とも感じなかった。

 できるわけがない。
僕の人生を生きるのにすら精一杯なのに、どうやって他の人の人生を請け負えというのだろう。
きっと僕だけではない。
自身の人生を生きるために、みんな死んでいくのだから。
そんな風に生きていかなければならない僕らが、誰かの人生の分まで生きるなんて、馬鹿げた話だ。
そうすると決意したならば、きっとその重さに耐えかねて、それこそ生活に飲まれる。
結局、僕らは脆い存在だ。究極生命体の僕でさえ、この命は皆と平等に、小さく、無力だ。

 だが彼も、「オレには無理だ」と明るく言った。
「やらなきゃいけないことがたくさんあっても、結局、この今、"この時"には一つのことしかできないからな」と続けて。
弁明する気もないみたいに、はっきりとした声だった。

「……ああ。そうだろうな」


 僕らは僕らの範囲での処理しかできない。
だとすれば、僕らは彼らの範囲に踏み入れられない。
彼らのためにできることなど何もない。
ただ生活に殺された彼らは、無念のままに死を受け入れることしか術がない。

 それでは何故、彼らはそうでもして、生を受け、生きなければならなかったのか。



 また鼓動が、ぎゅうと胸を締め付ける。



「では僕たちには何ができる」
 吐き出すように問い出した。

「僕には、…、何ができる?………」





「やっと聞いてくれたな」

 彼が僕の問いに返したのは、微笑みだった。
彼の言葉の真意と、彼の微笑みの意味が理解できなくて、僕はぽかんと色を落っことしたように彼を見た。
彼は僕の胸にやった手を取って、彼の握った僕の片手の方へ引き寄せる。
そのまま僕の両手を、彼の両手で包んで、再び僕に向き直った。

「オレも何度か考えた。
 何でアイツらが死んだのか、どうしてアイツらはそれでも生を与えられたのか……。
 今でも分からないさ。でも全部、きっと…偶然なんだと思うんだ」

 きゅうと、胸が締め付ける強さで、彼が僕の手を握った。

「だから、そこに意味があるとしたなら、
 それはそれこそ…フェイクなのかもしれない、なんて思ったりしてさ」

 「こんなことアイツらが聞いたら、きっと怒るだろうな」そう言って、彼は少し困ったように笑う。
彼の考え方も、きっとただ個人の意味付けでしかないことも、彼はきっと承知なんだろう。
 「でも」、と彼は一息つき、同時に懐かしがるように微笑んで、言を続けた。

「アイツらは、オレたちの記憶で生きているのは確かだ。
 だってオレたちが知っている、喋ったり笑ったりしてるアイツらは、生きてるアイツらしかあり得ないからな。
 アイツらはオレたちの記憶の中で生きてる。オレたちが覚えている限りは、永遠にな」

 言い終わって彼が息を吸うと、彼の微笑みが少し曇った。

「だからアイツらは、オレたちが忘れたときに死ぬ。
 生きるとか死ぬとか、それ以前に、存在することすら、できないから。
 きっとそれは、記憶の中で生きてるアイツらにとって、とても…悲しいことなんじゃないかって」

 最後は、ビー玉を転がすみたいに声を落とした。
それは全て、彼が考え、たどり着いた一つの真理だった。


「…過去と決別した僕は、君にとって『間違い』だったか」

 僕は小さく言葉を吐いた。

 僕は今までの全ての過去を捨て、今を生きることを決めた。
 記憶の彼女を手放して生きようとしたならば、それは彼女にとっては罪深い行為かもしれなかった。
僕はそれを覚悟で、それを選択した。過去に囚われず、「今」を生きるために。
しかし結果として、僕は、積み重なる今に立ち止まってしまった。
 彼の考えの全てを鵜呑みにしろとは彼も言わないだろう。
しかし彼の考えが正で、僕の考えが悪だとしたら、
立ち止まった僕に与えられた苦しみは、それに対する代償で、
償うべき贖罪なのかもしれないと感じたから。

「Hey、勘違いするなよ!」しかし、彼がすぐに否定した。
「間違いなんてないさ。オマエは、オマエとして生きるためにそうしたんだ。
 それでいいのさ。
 それに、決別したって、全て無くなるわけじゃない。
 全部、オマエの中に、過去も記憶も息づいてるはずさ」


 確かに、一度記憶を無くした僕の中に、彼女の過去も記憶も残っている。
時々彼女の声を思い出すことも、彼に救われてることも否定できない。
しかし、救われてるのは僕だ。彼女でも彼でもない。
それでも決別して、記憶を、彼らを誰かに伝えることもしない僕は、結局、彼らに何も……。

 表情の晴れない僕に、彼は少し悩んでいるようだった。
「だから、オレが言いたいのは……」言葉を探すように目を泳がせ、
そして大きく息を吸い込んで、彼が言葉を声にした。

 僕の眼に、彼の瞳がちかりと写った。




「オレたちにできることは、オレたちが変わらずに生きていくことなんじゃないか?」



 「え?」、僕は思わず問いかけた。

 予想もしなかった言葉だった。考えもしなかった言葉だった。
 僕は変わらなければならないと思っていた。
彼らのために、僕自身のために、何かをしなければならないと思っていた。
だが彼は、何もしなくてもいいと言った。何も変わらなくてもいいと言ったのだ。

「オレたちがアイツらの一部を持って、変わらずに、オレたちらしく生きていくこと…
 きっとそれだけで、十分なはずさ。」


「…たった、それだけで?……」


 彼女は、彼は、僕にたくさんのものを与えてくれた。
だから僕は、彼らのためにたくさんのことをしなければならなかった。
たくさんのことをしたかった。
そうじゃなければ、僕は、それこそ自身を傷付けてでも、この気持ちをコントロールできなかった。

 だが彼は言った、ただ変わらずに生きることが、僕が彼らにできることだと。
僕が彼らにできる恩返しだと。
借り返しだと。
償いだと。


 彼女が教えた笑うこと、泣くこと、怒ること、
辛いとき誰かに頼ること、青い星や宇宙のこと、
そこにいる人たちを愛すること。

 彼がくれた味の変わるガムや、
元気の出しかたや、励ますこと、誰かのために祈ること、
ちょっとしたジョークや煙草のこと、
ここにいる人たちを愛すること。


 僕は、僕が貰ったたくさんのものの、借りを返せるのだろうか。
僕がここで、ただ僕として生きるだけで。



「もちろんさ」 彼が笑った。

「それに……、
 アイツらのためにオマエが苦しんだり、傷付いたら、きっとアイツらは心から、悲しむだろうぜ」


 僕は目を見開いて彼を見た。
彼は明るく微笑んで、「Right?」と言って、また笑った。


 僕はこの時初めて気がついた。
 僕が彼らのことを深く考え込みすぎたために、彼らのことをまるで無視し続けていたことを。
僕はずっと死者としての彼らを見ていた。
けれど、違う。
死者としての彼らしか考えない僕が、"彼ら"を考えることができるだろうか。
だから僕は立ち尽くした。
僕はきっと、最初から間違っていたのだ。

 生きていても、死んでいても、彼女は彼女自身だ。彼は彼自身だ。
誰でもない、彼らだ。彼ら自身だ。
僕はそんなことも気が付かずに、答えもない答えを探して、一人で苦しみ続けて。



 誰かの生を、誰かの幸せを、誰よりも考えていた彼女が、彼が、
どうして僕の苦しみを望むだろうか。




「ソニック……」

 僕は呟くように、彼の名を呼んだ。
彼は嬉しそうに笑っていた。最近見たことのあるような顔だった。
 彼がぎゅっと握りしめた僕の手には、ぬくもりがかえっていた。

 彼は僕に、今日はもう寝るように勧めた。
時計はもう夜中過ぎを指していた。今日だった昨日は、もう終わっていたようだ。
そういえば、カーテンはすでに外の景色を隠して、電灯が部屋を明るくしていた。
あまりに身近なことに、気が付かなかった。
僕の手元には、僕が知っているようで、知らないことばかりだ。

 もう少し休養を欲していた体と心は、脳に眠気を誘い、彼の言の返事をする前に、僕は目を閉じてしまっていた。





 星空は止まない。
きっと僕が生きているうちはずっと、その先も永遠に降り注ぐのだろう。
先に落ちた星たちは、新しい星たちに埋もれていく。
誰にも気付かれずに、他の星たちに押し潰されて、埋蔵される。
そうして作られた地面に、僕は立っている。僕らは立っている。
僕らはそんなことも知らないで、生活に生活を重ねて、やがてきっと僕らもこの星のようになる。
地面を作る。地層になる。
そして、次の僕たちのために土台を作る。きっとそんな運命だ。

 けれど、そっと地面に耳をつければ、存在すら許されなかったはずの音が聞こえてきた。
優しい声、ちょっと怒った声、でもどこか、母親や父親のそれのような、温かい声。

「ばーか、俺の心配なんかすんなよ、シャドウ!」
 彼がからかうように笑う。
「私は今でも幸せだから。大丈夫よ、シャドウ」
 彼女が愛情を包んで微笑む。

 本当は聞こえていたはずだった。
見て見ぬふりをしていたのは、もしかしてこの僕だったんじゃないだろうか。
僕は困って、少しだけ笑った。

 耳を傾ければ、聞こえてくる。
いつだって、僕らに語りかけてくる。
これも、もしかしたらただのフェイクにしか過ぎないかもしれないけれど、
でも、僕の記憶の中で笑ったりはしゃいだりする彼らに、きっと間違いはないから。


「すまなかった」


 僕は星の声に向かって、小さく囁いた。







 次の日に目を覚ませば、彼はもういなかった。
代わりに、小鳥が窓のサッシの部分に腰掛けて、うるさいぐらいに小高い声で鳴いていた。
晴れた外の光が、やけに眩しかった。
 ベッドから立ち上がると、机の上に、紙袋に包まれたチリドッグを見つける。
伝言やそのようなメモも見付からなかったが、多分チリドッグ大好きハリネズミの彼が置いていったものだろう。
腐らせるのもいけないから、食べてやった。
朝からスパイス大量含有のチリドッグとは、とても胃に優しいものとは思えないが、僕の体なら大丈夫だろう。
ああ、僕はもう大丈夫だ。

 先日の報告書や諸々の書類を片付けるために、GUN本部の事務所へ足を運ぶと、
コウモリの女性同業者がパソコンの前で何やら操作をしていた。
彼女も溜まった宿題を終わらせに来たのだろうか。
整理しなければならない書類を集めた後、何気なく彼女の隣の席に腰掛けると、彼女がこちらに一度目配せした。

「やけに晴々しい顔じゃない。何か悪い夢でも見たの?」

 彼女が冗談めかして尋ねながら、キーを打ち続ける。
僕は山が作れるほど溜まってしまった書類のトップを手にとって、パソコンの電源を付けた。

「借金の取り立てが喧しくてな」
「はあ?」

 本気で素頓狂な声を出された。
見事なブラインドタッチのタイピングの手が止まっている。
「ジョークだ」と答えると、彼女は更に変な顔をしてこちらを見た。
彼のようなジョークを習得するには、少々時間がかかるようだ。
 ふと、机の上、パソコンの影に隠れたあるものを見つけた。
ガムの缶だ。
そういえば、ここで彼にガムを缶ごとあげた記憶がある。
数日前に事務室常備用のガムが切れただとかって、彼が言っていたような気がする。
…「めっちゃグッドタイミングじゃん!いやぁ、サンキューシャドウ」……。
そんな風に、本当に嬉しそうに、笑って。

 慣れない不器用なジョークの詫びに、「食べるか」、とそのガムの缶の蓋を開けて差し出した。

「あら珍しい。貰っちゃっていいの?」
「これは元々僕のものだ」
「あら、珍しい」彼女がにやりと笑った。「でも、"借り"には含めないわよ」
「含めなくていい。今度彼に会ったときに伝えておく」

 ため息混じりに僕が答えた後、「んじゃ遠慮なく」と、彼女は手を伸ばして一粒を口にした。
それから彼女はパソコンに向き直って、再び手を忙しなく動かした。
僕もすでに立ち上がったパソコンの方に向いて、マウスを持ったり、キーボードを打ったりした。
会話はない。僕も彼女も、少しドライな雰囲気がちょうどいいらしい。

 しばらくして、彼女がふと、何かに気が付いたような短い声を出した。
「味が変わった」と。
彼女の驚きの声に、「そういうガムだ」と返してやった。
ふーん、と彼女は相槌の後に、「何か体に悪そうなの入ってそう」と、その体に悪そうなガムを噛みながら一人ごちた。


「でも、悪くない味ね」

 彼女がこちらにサインのような一瞬の視線を送った。
僕はその一瞬を見逃さない。
でも、目による返事はしなかった。



 きっと、世界は今も目まぐるしく回っているのだろう。
僕がここでキーを打つたびに、どこかの誰かは喜び、誰かは悲しみ、誰かは終わり、また誰かは始まる。
そんな世界にいる僕らは、その画面上にどのような文字が打ち込まれているのかも知らずにいるのだろう。
まるでこのガムみたいに、僕らが気が付かないうちに、色々なことが変わっている。
色々なものが変化して、死に得て、日常に積み重なっていく。
誰かの崩れた日常を肥料にして、誰かの日常を育んでいく。

 でもそれは、意味なく回る滑車と言うよりは、僕らの日常だから。



「ああ。悪くない」

 代わりに、僕はクリックと一緒に言葉を返した。

 

 

 

 

   12 08 10 Fri.