世界に抗い、世界と戦うと言った僕が世界に負けた時、
それでも、青い空は消えなかった。










 茫然と、立ち尽くしていた。
 心臓の音が聞こえない。しかし、体中の血は変わらず循環し続けている。
 ざあと世界が風にさらわれて、波のように引いていった。
僕は確かにここに立っているのに、地面に足を付けている気がしない。
僕は、世界に置いてけぼりにされてしまったみたいだった。
 そうしていたら、彼を見つけた。
空気から滲み出て、いつの間にか僕の少し遠くの前方に立っていた。
それよりも遠く遠くへ姿を消そうとしている世界を背に、彼は僕を見つめ返していた。

 彼が歩き出す。
僕は、それを見ているしか出来なかった。
ほぼ無意識に僕は立っていれているが、何故か体は全く動かないのだ。
彼に制止を伝える手も上がらないし、足も後ろを向こうとしない。
しかしこの足は、前に歩き出そうともしない。
ただ立ち尽くして、こちらに歩み寄る彼の様子を見、浅く呼吸するしか僕には他何をする事も出来なかったのだった。

 彼が僕の前に来て、止まった。
彼の黄緑色が、相容れぬ僕の赤い瞳を見つめた。
僕の瞳に、彼の青い空が映る。
色を無くした世界には眩しいぐらい明澄で、美しく、本当の空のように広大だった。

「よく、頑張ったな」

 彼の口が開いて、それは笑顔の形になった。
そこから、白い歯が覗く。
頬を綻ばせて、彼は僕の笑顔を誘うように微笑んだ。
彼の笑顔は、いつも嘘も偽りもなかった。

「もう、強がらなくていい。いいんだ。オレが全部受け止めてやるから」

 僕は、彼の言っている意味が分からなかった。僕は、彼の笑顔の意味が分からなかった。
心臓の拍動はとっくに消えていたし、その音を取り戻そうとも思わなかった。
 僕はこれでいい。世界が僕を拒むなら、そうすればいい。
 それでも、僕の体に血は巡る。

「なあ、シャドウ」

 彼が、一歩僕に近付いた。
それと同じ距離・一歩退こうとしたが、足に力が入らない。
そもそも、力を入れる必要などないのだと、僕はふと気が付いた。
彼は、僕の前から無くなったあの世界の住人なのだ。
僕はあの世界で生きるのをやめた。彼と僕は相容れぬ存在なのだ。

 しかし、それなら、何故あの世界の住人である彼が、僕に笑いかけるんだろう?

「辛くてもいいさ。どうしようもなく涙が溢れてしまうなら、そのまま泣けばいい。
 今までオマエは頑張ってきたんだ。苦しみも悲しみも辛さも全部押さえ込んで、走って来たんだ。
 もう、いいだろ?」

 何が、いいと言うのか。

「…ああ、そうだな。僕はこれでいい。そう。これでいい」


 ああ、彼が言いたいのは、こういう事か。
 そうだ、僕は、これでいい。
僕は、もう世界と戦わない。世界に抗わない。
世界は世界の好きにすれば良い。僕は、世界が命令する通りに生きる。

「違う、そうじゃないんだ、シャドウ」

 突然彼がもう一歩こちらに踏み出し、そして僕の手を握った。
 ドクンッ!
 瞬間、僕の心臓が跳ね上がった。

「やめろ!!」

 今まで微動だにしなかった僕の手が動いて、彼の手を振り払った。
彼はほんの少し体勢を崩して、しかし踏みとどまって僕を見た。
それは睨むでもない、僕の瞳を真っ直ぐに、貫くように、また優しさをもって、見つめていた。

「はっ、はっ、は、はあ、」

 息が乱れていた。
大きく息を吸い、吐く、その運動に空気が喉の奥の方を擦って、ひゅーひゅーと音が鳴る。
消えていたはずの心臓の音が、僕の耳の奥で仕切りに高く鳴っていた。
思わず僕は耳を塞いだ。しかし、鼓動は消えない。

「やめろ…、やめろ…、」

 耳障りでしかない脈打つ音は、それでも僕の中で鳴り響いた。
いや、それはずっと前から、叫び響いて、僕に訴えかけていたのだ。
この世界に居る事を、訴えかけていたのだ。
ずっとずっと、それは僕がこの世に生まれてから。
僕はそれを無視していた。努めて無視し続けた。ただそれだけのこと。

 意識の中に復活した鼓動は、僕の胸を強く締め付けた。
何とも表現出来ぬ痛みが心臓を襲って、呼吸もままならなくなった。
僕の体中の血が脈打って、僕は遂にその鼓動に負けた。
膝を付いて、蹲る。
吐きそうになるくらいの胸の圧迫感はそれでも消えず、僕は強くその騒ぐ場所を手で押さえた。

 僕は最後の抵抗に、息を止めた。
しかし、心臓は酸素を求め、最後の砦も直ぐに崩れ去り、僕は荒く呼吸を続けた。


「苦しい…」

 耐えられず、呟いた。


 だから、僕は、あのままでいいと言ったのだ。
 息も鼓動も苦しくて、苦しむのにも疲れたから、僕は世界から身を引き、世界に従属しようと努めたのだ。
 そうすれば、苦しい事も何もない。
余計な希望も、それが裏切られた時の絶望も。
誰かに触れる喜びも、誰かに傷付けられた痛みも。
悲しみも、辛さも、優しさも、「生きる」という事さえも、全て無くなってくれる。

 それが、僕の…。


「答えなんかじゃ、ないだろう」

 あの世界の住人の、彼が聞いた。
苦しみ、希望、絶望、喜び、痛み、悲しみ、辛さ、優しさ、
全部の中で「生きる」彼が、僕を見ていた。

「辿り着いた末路が、最後に残った結果が、辛くて辛くて仕方なくても、
 なあ、シャドウ、オマエは、本当は生きたいんだろう?」
「違う。僕は。僕は、もう」

 彼は、変わらず笑っていた。


「いいだろう。もう、一人で苦しまなくてもいい。いいんだ。」



「僕は…」


 いつもの、力強く寛大で、優しい、明るく生命を宿した笑顔で、彼は僕を迎えていた。
彼の笑顔は、いつも嘘も偽りもなかった。

 僕は彼に目を背けた。嘘も偽りもない、希望そのものの笑顔を、見るのが辛かった。

「僕は…、僕は…」



 どうせ最後は裏切られるに違いないのに、どうしようもなく、何度も何度も、希望を願ってしまう。
「きっと」「いつかは」「次こそは」――― 薄っぺらな望みを並べては結局歩き出せずに、
裏切られた気持ちになっては世界に絶望して。
そして何度も何度も、世界に空虚な希望を押し付けては絶望して、同じ過ちを繰り返し、
挙げ句に僕は、全ての元凶を世界のせいにする。

 世界と戦って、その先に何がある。
 世界に抗って、その先に何が残る。
 願っていた全てはいつも、希望という幻影となって一緒に消えた。
残るのは落胆や絶望、悲しみや苦しみや辛さだけだった。
だから、僕は、希望を持たずに生きようって。

 それでも、それでも、それでも。

「僕は、愚かだ…」

 また何度だって、望んでしまう。


 ああ、知っているのだ。
 世界に絶望して、また願って、進めたと思えた途端に振り出しに戻される。
結局何も変わらなくて、全ての責任は世界だけにあると、僕は必死に言い訳を粗探ししていた。
…一番悪いのは世界ではなく、そんな自分なのだ。
全ての元凶は、自分自身なのだ。
けれど、そう悟ったとて、何も変われぬ。変わらぬ。
歩き出せないのだ。歩き出さないのだ。

 歩き出そうと思っても、いつも結局歩き出さないまま、そして何も変わらない。
それがまた苦しくて、全部世界のせいなんだと僕は言い訳を吐く。
そして、希望があるだけ苦しいだけだと、遂に世界から逃げた。

 愚かな、男だ。



「ああ。よく、頑張った」

 僕の傍らで片膝を付き、僕と高さを合わせた彼が、僕の頭を撫でた。
横へ滑らせて、少しだけトゲにも手を伝わせる。
僕に、手袋の、少しざらざらした布の感触が伝わる。
編まれた糸越しのそれは、それでも暖かだった。

「苦しかっただろう、辛かっただろう。希望を持たずに、一人で走り続けるのは。
 オマエはよく頑張った。もう、無理なんかしなくていいんだ」

 僕を誘うように、その手は、今度は僕の俯いた頬に触れた。
僕はそれでも、彼の顔を見るのを拒んだ。
世界に抗って、世界と共存して、世界に「生きて」いる彼の顔を、
僕が以前そんな風に「生きて」いた時にしていた顔とそっくりな彼の顔を、見る事など出来なかった。

「無理なんかしてない。僕は決めた。…もう、希望を」
「何度だって、望んでもいいさ」

「君に!!!」

 卒然、僕の体中の血が沸騰して逆流するような感覚に襲われた。
ぞぞぞと震えが全身に這い広がって、毛が逆立ち、遂に感情が噴き出した。
 僕は彼に食らい付くように、胸倉を引っ掴んで彼を地面に叩き付けた。
彼が痛みに顔を歪める。
そのままのベクトルで、僕は彼の体に乗り上がり、彼の体の自由を奪った。

「僕の…何が分かる!!!」

 彼の希望に満ちた顔が憎くて、こうすれば彼の希望に満ちた顔が無くなると思って、
僕は拳を振り上げ、彼の顔面へ思い切り振り下ろした。
 ――― しかし、僕の拳は彼の片手で受け止められた。
至極易々と。
僕は目を疑った。
握っていたはずの拳の紐が緩んでいた。
手に力が入っていなかったのだ。

 馬乗りになった状態で、そのまま僕は動けなくなった。
心臓は変わらず高鳴っていた。息は苦しかった。
僕が以前、世界に抗って、世界と共存して、世界に「生きて」いた時と同じように。




「僕は、どうしたらいい……」



 希望を願ったところで叶うわけもなく、傷を負うだけで他何もない。
それでも何度も望んでしまって、繰り返しては苦しんで、その世界に「生きる」のが辛いから、世界から自身を背けた。

 それでもなお、僕は希望を願っていて。

「……、ソ、」

 希望を持てばまた悲しい目に遭うだけなのに、それでもどうしようもなく繰り返すと言うのだ。


「ソニック。…、…、…ック…、……」


 彼の名を呼んで、こうして、僕はまた希望を願う。




「シャドウ」

 彼が、彼を殴るはずだった僕の拳を開いて、持って、彼の胸へと移動させた。
僕の手に、ド、ドッ、それは鈍く、でも確かに動く何かの感触が伝わった。
彼の心臓だ。
彼の心臓は少し早く、そして絶えず、力強く鼓動していた。

「ほら、な、聞こえるか?」

 そして彼は、僕のその手を僕自身の胸に押し当てた。
ドッ、ドッ、ドッ、それは彼よりも早いリズムで動いていた。
僕の心臓だった。
体中に感じる鼓動と連動して、僕の心臓も絶えず動いていた。

 思わず、彼の顔を見た。笑っていた。


「な、オレもオマエも、生きてるだろ?」




 涙が溢れた。
何もしないのに次々と、瞬きをしたらそれは頬を伝った。
それらは全部彼の腹か頬に落ちて、それから地面へ流れていった。
息は震え、僕の胸に押し当てられたその手も震えていた。
心臓は強く拍動していた。強く、絶えず。

「何度だって、願っていいさ。
 だって、生きてるんだ。オレたちは生きてるんだ。
 何度だって希望を願って絶望して、でもそれがオレたちなんだ。
 生きるってことなんだ、シャドウ」

 そう言って、彼は微笑んだ。
 彼の笑顔は、いつも嘘も偽りもなかった。


 そう、彼の言う事には、嘘も偽りもなかった。
 僕は、信じていたかった。
 あの世界が、どれだけ苦しく、辛く、悲しみしかない世界だとしても。
 僕は、信じ続けたかった。希望を持っていたかった。
 それが、儚く散り行く人の夢だとしても、世界と戦い、世界に抗い続けたかった。
 世界と共存していたかった。
 どんなに否定し続けても、どんなに拒絶し続けても、

 本当は、僕は、生きていたかった。


 胸が苦しくて苦しくて、僕は強く目を瞑った。
隙間から涙が零れ続けた。
熱く閉まる喉は、僕に呼吸を困難にさせた。
それは、共に僕に呼吸の実感を与えた。

「お前は生きているのだ」、と…。


「僕、…は、生きて、…」

「ああ。いいんだ。」




 目を開くと、突然、周りは色でいっぱいになった。
硬い岩々が生える荒れた野の向こうに、緑に映えた森が続いていた。
空は青かった。彼みたいに眩いぐらい明澄で、美しく、何よりも広大だった。
そこには白く光る雲さえ浮かんでいた。

 世界が帰ってきたのだ。いや、否、僕が世界に帰ってきたのだ。

「おかえり、シャドウ」

 地面に片手を付いて上体を起こした彼が、そう言った。
 涙はまだ流れ続けていた。
しかし、それはいつも一人で流す涙ではない。
僕はこの涙の意味を知っていたから、そのままに、彼を見つめた。
彼は微笑んでいた。嬉しそうに、優しく笑っていた。
 この先僕がどれだけ辛く苦しく、世界という矢に喉や心臓を打ち抜かれようとも、
自分自身という城壁に思い悩んで引き籠ってしまおうとも、
また救い出してやると、
「オレはいつでもここにいる」と、
僕は、彼の笑顔がそう語っているように感じたのだった。

「…ああ」


 僕は、何度だって希望を願う。そして絶望する。
彼がそれを「オレたちであり」「生きること」と喩えたように、きっとそれは僕だけではない。
 皆、何度だって希望し、世界に絶望しては自身を愚かだと苛める。
そして希望を持って生きる。
その先にきっと何かがあるように、望み願い続ける。

 それが業というならば、僕は業に従い続ける。
彼が僕に「いい」と言ったように彼が彼自身にそう言い続けて来た業を、僕は皆と同じく繰り返し続ける。
 それが「生きる」ということならば。

 僕はその業をもって、生き続ける。生きたいと願い続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

    11 04 30 Sat.