誰も知らない、ぼくだけのかくれんぼ
Hide-and-Seek:Alone
小さな頃の思い出だ。
両親と、別荘でキャンプをした。
パパは自家用の小さな船を出して、ぼくと一緒に別荘の目の前にある湖をひとっ走りした。
たくさんの風がぼくを包んで、とても気持ちがよかった。
釣りもした。
パパは釣りが上手くて、ぼくはとっても小さな魚一匹しか取れなかった。
悔しかったけど、楽しかった。
パパは言った、「来年もまた来ような」って。
ママは家でお仕事の練習をしていて、それから、ぼくに役者のおけいこをしてくれた。
将来は大スターになるわ!とママは嬉しそうにたくさん褒めてくれた。
ママは料理も作ってくれた。
味はイマイチだったけど、ぼくのお腹も心もいっぱいに満たされた。
嬉しそうにしているぼくに、ママは言った、「来年もまたママの手料理作ってあげるからね」って。
そしてぼくらは写真を撮った。
食事の時間、花火をする様子、笑いあった時、些細な日常も、まるで一つのフィルムを作るみたいに、
全てのシーンを一枚の写真におさめた。
その日最後の写真を撮るとき、ぼくはパパとママに挟まれて、笑った。
パパもママも笑っていた。
「また来年も来ようね」、ぼくは二人と指切りをした。
二人は嬉しそうに、ぼくと一緒に笑っていた。
その日は本当に楽しくて、嬉しくて、ただただ幸せだった。
これからもそんな日々が続いていくんだと思った。
そして来年になれば、またパパとママと、あの別荘でキャンプをするのだと、当然のように思って、楽しみにしていた。
ある日、パパとママは、家政婦のエラとボディーガードのタナカを雇って、家を空けた。
それから二人は、ほとんどずっと家に帰ってこなくなった。
お仕事なんだ、仕方ないんだって、ぼくはぎゅっとがまんした。
その心を支えていたのは、二人の笑顔と、約束だった。
いい子にしていれば、すぐ帰ってくるんだと信じていた。
でも二人は、プレゼントのおもちゃにぼくの相手を任せっきりにした。
それでもまだ、ぼくはキャンプの約束を信じて疑わなかったのだ。
ぼくは二人には何の文句も言わず、こっそりと隠れたまま、ただ願っていた。
二人はぼくに気が付かなかった。ぼくを探そうともしてくれなかった。
でもぼくは、ひっそりと心の物影に隠れて、ただただ、願い続けていた。
そうしているうちに、あの日に撮った写真は、ずいぶん色褪せてしまった。
「何見てんだ?」
「わ!」
写真を見ていた。ずっと前の写真だ。ずっとずっと、前の。
あの日のために買った新しいカメラで撮ったこの写真も、今みればまるで大正時代に撮られたぐらい、色褪せてしまっているようだ。
思い出すら。
あの新しいカメラを余すところなく自慢していたそれの主は、きっと とうの昔に忘れてしまっているだろう。
彼にとっては、彼女にとっては、何でもないただの出来事のひとつだ。
でも、ぼくにとってはたったひとつの、かけがえのない宝石のようなものだった。
ぼくはずっと忘れられないでいる。
「忘れてしまえば、きっと楽なのになあ」、一枚の向こうの笑顔を眺めながら一人ごちた時だった。
突然声をかけられて、ぼくは飛び上がるぐらい驚いた。
後ろからぼくの手元を覗いていたのは、ぼくより少し年上で、ぼくよりずっと背の低い、彼だ。
トゲをふわりと揺らし、ぼくの背中からひょこりと顔を覗かせて、ぼくの手元を―この一枚の紙切れを見ていた。
「写真かい?」
彼はそれを見て、少し興味ありげな目で首を傾げた。
その目は、まるで弟や子どもを見るような優しげな色を宿していた。
その彼の顔に、ぼくは何だか悪いものを見られたみたいに、急に気まずくなった。
理由は分からない。
ただこの場からとりあえず逃げ出したくて、「何でもないよ!」、素早く写真を机の中の物の下に隠して、部屋を飛び出した。
彼は多分、今度は不思議そうに首を傾げただろうけど、ぼくには彼の様子を振り返る余裕すらなかった。
事はその次の日だ。
ぼくが学校から帰ってくるなり、目が合った瞬間抱きついてきたのは、
ぼくの帰りをいつかいつかと待っていたらしいぼくのママだった。
「クリス!」ぼくの顔を見るなり、ぱあっと表情を輝かせて、ぼくの名前を呼ぶと共に、ぎゅっと強いハグをされる。
嬉しいとかやめてほしいとかそれ以前に、ぼくは嫌な驚きでいっぱいだった。
「どっ、どうしたのママ?!今月いっぱいは映画の撮影があるって…」
「そうそう、クリスのために休みを取ったのよ!クリスが寂しがってるって聞いて…」
それを聞いて、ぼくは顔が青ざめる思いだった。
本人は至って自然に話すが、これは至って大問題だ!
かの有名女優が、我が息子がただ寂しがっているからと休日を奪取するとは、
果たしてこれは世間的に許されるのか?否!
今までだって、一度だって、帰ってきてくれたことなんかなかったのに。
「今日はクリスのために、ママが久々に手料理を振る舞ってあげるから、楽しみに…」
「それどころじゃないよ、ママ!」 ぼくの声は半分呆れていた。
「ぼくのことは心配しないでいいってあれほど…」
「あら!ママはいつも、クリスのことを第一に考えているわよ?」
よく言うものだ。
今度は少し叱るように、「もう!」とにこやかな顔に声を荒らげた。
ママが帰ってくるのは嬉しいけれど、もう今や、そんなことは余計なお世話だ。
ぼくだって、もういつまでも子どもじゃない。
さて、ぼくが寂しがっているだなんて誤報を伝えたのは、誰かといえば、恐らく一人しかいないだろう。
ママを横目に、白々しく玄関を通りすがる彼を掴まえて、隣のリビングまで引っ張った。
「What?」
「もうソニック、余計なことしなくていいよ!」
「何の話だい?」
彼はきょとんとして、まるで何も知らないかのように、口を細長くして肩を上げた。
鈍感なのか、それとも本当に何も知らないのか。
でも今は考えている余裕も暇もない。
「ママのことだよ!ソニックだよね、昨日ぼくが写真を見てたから…」
ぼくはドア越しにいるママに聞かれないように声を潜めて、しかし不満はボリュームいっぱいにして、声を荒げた。
一方の彼といえば、きょとんとした目を一層丸い点にしてこちらを見ていた。
「Yes?何が悪いんだい?」
「何でって…」 詰まる言葉を絞り出す。
「ママは有名女優だよ?たった一日でも、ママがいなかったら困る人もいるんだから!」
「実の息子が、必要としてるのに?」
平然と、彼は答えた。
呆気に取られた。
面食らった、と言った方が正しいかもしれない。
ただぼくは、きょとんとしている彼の顔を見ていた。
ぼくは彼よりも一層、少しばかみたいにぽかんとしていることだろう。
思えば、ぼくは何故こんなに焦燥して、落ち着きを失っていたのだろう。
そして何故、実の母を呼んでくれた彼に怒りさえ覚えていたのだろう。
彼の淀みない純粋な顔が、ぼくの奥底にある何かをを沸き起こすようだった。
彼の瞳に写ったぼくは、急に眉毛をつり上げた。
「…ソニックには分からないよ」
思った以上に語調の強くなった言葉を吐き出して、ぼくはリビングを飛び出すように後にした。
まだホールにいたママは、至って楽観にぼくを待っていたようだった。
ママは、ぼくの為にプレゼントを用意しただとか、エラに頼んでパーティでもしようかとか、
ぼくの嬉しがることばかり言ってくれたけど、今のぼくには、全然、耳に楽しく響かなかった。
すぐに帰るから、それだけ言い残して家を出たぼくに、ついてきたのは足元の短い影だけだった。
あまり遠くに行くつもりはなかった。行くところもなかった。
ぼくはただ歩を進めた。
学校の近くに行った。
放課後をかなり過ぎた今の時間帯は、生徒も帰路についたらしく、昼間とはうってかわって、かなり閑散としていた。
その先を歩いた。
ビル群を抜けて、郊外に出た。
坂道を登った。
道が舗装された山道を歩いた。
その先に、少し小高くなっていて、木々の開けた場所を見つける。
崖から生えるように出来た地面に立ってみると、そこは眺めも良く、都会を一望できた。
しばらく景色を眺めていると、急にどっと疲れが出た。
小学生の体力もたかが知れたものだ。
少し汗ばんだ体を、そこに座らせて、ぼくはぼくの住む街を眺めた。
あんなに高くそびえていたビルも、ここから見ればまるでおもちゃのようだ。手のひらにだって乗るサイズだ。
ならば人間はどれほど小さく見えるのだろう。
きっと、ぼくの手にも収まらない。
だって、きっと小さすぎて、ぼくには見えやしないから。
ため息をついた。
久しぶりのひとりだ、と思った。
学校に行けば、友達がいる。
家に帰れば、今はソニックたちがいるから、ひとりになる機会が減った。
喜ばしいことだった。本当に嬉しいことだった。
毎日が楽しくなった。
早く学校に行きたいと思うし、学校に行けば、ずっとここで友達と遊んでいたいと思える。
早く家に帰りたいと思うし、ずっと明日にならなければいいのになあ、なんて思ってしまう。
それでも明日が待ち遠しくて、布団に入れば、すぐに朝が楽しくなる。
今のぼくには、過去のぼくとは無縁そのものだった。
だからもう大丈夫だと見た写真は、それなのに、ぼくにはあまりにも寂しく映った。
ああ、きっともう、ぼくは知ってしまっているから。
「…もう、いいよ」
口から、一つの言葉が漏れた。
「ここはいい場所だよなあ、クリス!」
「わあ!」
伸びやかな声が、急に後ろから放たれた。
ぼくは飛び上がって、振り返って見れば、そこには気持ち良さそうに両手を空に伸ばす彼の姿があった。
空みたいに青い彼のトゲが、ふわりふわりと風に揺られていて、
それは空というより、緩やかに波打つ海のようだった。
「ソニック」、ぼくの、大切な、ともだちだった。
彼は伸ばした両手を下ろして、ぼくを見た。
何でもないように見つめるその大きな瞳にぼくが映って、
まるでぼくの心の奥深くまで筒抜けているみたいだった。
ぼくは、急に現れた彼を、きょとんとした顔で見つめ返していた。
先程の怒りに似た焦燥は、もうとうに消え去っていた。
「さっきは、悪かったな」
先に口を開いたのは、彼だった。
しかも謝罪の言葉だ。ぼくはさらに驚いた。
何故彼が謝るのか…思った突然、ぼくは思い出した。
彼の好意を投げ捨てて、ぼくは家を飛び出したのだった。
最初に怒りを投げつけたのは、ぼくだ。
「…いや、ぼくの方こそ…ごめん…」
ぼくの深い気まずさが、ぼくの言葉を渋滞させて、声は途切れとぎれになってしまった。
今思えば、あれは完全に八つ当たりか、その類いだ。彼が謝るべきものじゃない。
ぼくが先に謝るべきだったのに。
もやもやとした緊張に、彼の顔を見たくなくなったぼくの視線は、自然に下へ向いていた。
彼の影は長く伸びて、ぼくの身長と同じぐらいの長さになっていた。
彼は何も言わず、ぼくの隣まで来て、その先の景色を眺めた。
目先が迷子になったぼくも、眼下の景色を何気なく見つめた。
長く伸びた木々や、青々と生い茂る草花に囲まれた丘で感じる風は、
長く伸びるビルや、青々とした標識やカラフルに彩られたイルミネーションの中で感じるそれとは、まるで別物で、
そして格別だった。
ここの風はまるで自然の匂いだ。
夜に窓を開けて感じる、ただの気休めなんかじゃない。
そうだった。全部、本当の喜びだった。
気休めなんかじゃない。
今の楽しい毎日だって、全部ぼくには本当だった。
だからぼくは大丈夫なはずだった。
そうして見た写真は、ぼくにはどうしようもなく、寂しくて。
ぼく自身が、隠れていたぼくを見つけてしまったのだ。
きっと、心の中に隠れていたぼくは、本当は、寂しかった。
けれどこのぼくは、寂しがっていることを認めたくなかった。
あり得ないと思いたかった。
だからぼくは、ぼくが寂しがっていることを伝え親を呼んだ彼に腹を立てた。
心の中に隠れていたぼくは、本当は寂しかった。
それなのに、このぼくは天の邪鬼のように、帰ってきた親にまた、怒りに近い感情を持った。
"寂しがっている"ぼくのために帰ってきた親を、喜んで歓迎することができなかった。
ぼくは大丈夫なはずだったから。
何もかも本当は、知っていても、ぼくはもう大丈夫なはずだったから。
ぼくの心は、ピースがばらばらになったパズルのようだった。
「……ソニックは、」
自然と、言葉が滑り出していた。
「ソニックは、寂しくなったり、ひとりが怖くなったり、そんな時って、ある?」
彼の視線の気配を、ちらりと感じる。
ぼくは少し無視して、数回まばたきをした。
少し経ってから、多分、彼は前に向き直って、「たまにな」と答えた。
「悩むことだってあるさ」
「ソニックも、悩むことがあるの?」
「Yes, of course.」 彼の声はいつも明るい。
「そういう時、ソニックは…どうするの?」
ぼくは彼を見た。
彼はせがむぼくの視線を、大人っぽく意識に留めながら、都会の景色を眺めていた。
彼の瞳の中に、広く遠い景色が映った。
あの街に住むたくさんの人が、声が、生活が、あの街を作り出す生命が、輝かしく映っているような気がした。
不意に彼が、靴の爪先で、とんとんと地面をノックした。
彼に応えるように小さな風が吹く。
「そういう時は、走るだけさ」
彼は、前を見た。
「走っていれば、必ずたどり着く。
面白そうなこととか、綺麗な景色とか…仲間にだって。
そのうち寂しさとか辛さなんか、色んなことに塗り潰されるさ」
彼の言葉は、些細な風に飛ばされて、空に溶けた。
確かにそうかもしれない。ぼくだってそうだった。
ソニックたちがぼくらの世界に来てから、たくさんのものが、ぼくの寂しさを塗り潰してくれた。
彼にとっては、それは彼の心を満たすものかもしれない。
でもぼくにとっては、それはただの穴ぼこのスポンジケーキだ。
甘い日々は、ただ隠れていた感情をより一層奥にしまわせただけだ。
何をはめても、そこには何も埋まらない。
消えない。消えるわけがない。
小さな頃から降り積もった、わだかまりは。思い出は。
あの日の、約束は。
「それでも、消えないときは…、
たどり着けなかったときは、ソニックは、どうするの…?」
恐る恐る、聞いた。ぼくは自然と目を伏せた。
答えなんかないと思ったから。
ぼくにはとても、解決策なんか、見つかりそうになかったから。
だが、彼は答えず、不意に沈黙が続いた。
ぼくはどうしたのかと思って、ふと顔をあげた。
すぐに彼と目があった。
彼の目は、傾いた夕日の光を真っ直ぐに受けて、ちかりと輝いた。
まるでぼくが夢見た宝石みたいに、幼いほどに純粋で、けれどどこか大人みたいに寛大で、
撫でる小さな風のように、優しかった。
「それでもオレは走り続けるさ」
彼は、今度はぼくに向かって、言った。
彼の草木色が、真っ直ぐに、ぼくを見ていた。
「いつか必ずたどり着くって、分かっているから」
ぼくよりも小さいはずの彼が、不意に、とても大きく見えた。
彼の言っていることは、きっと本当なんだろう。
だからこんなに、そう話す彼の瞳はたくさんのものを映して、
まるで海が弾く太陽の光みたいにきらきらとしているのだろう。
排気ガスなんか消し飛ぶぐらい、それは彼の人生そのものを物語っているかのようだった。
彼とぼくは違う。彼はいつだってどこへでも行ける。
地球の裏側にだって、会いたい人の所へ、いきたい場所へ、望んだときに望んだ場所に行ける。
綺麗な場所へ、面白そうな所へ、仲間のもとへ、
それこそ、会いたい人へ。
ぼくの口が、何故か小さく笑った。
「…そうだね。ソニックはどこにだって行けるんだよね」
そうだ、
けれどぼくは、違う。
「オレだけじゃないさ。オマエだって、」
ぼくは小さく首を振った。
「ぼくが、本当に行きたかった場所は、…。」
分かっていた。
それは彼自身で、彼が真としていることなんだって。
もしかしたら、ぼくにとっても本当のこととなり得ることだってことも、小さく期待して。
でもぼくは分かってた。
ぼくのその小さな期待は、永遠に、叶うことなんてありはしないんだって。
「…だから、もういいんだ」
そうやって諦めて、自らそのチャンスを手放していることだって。
けれど、例え立ち上がってもその先に夢見た場所があるわけがないことだって。
ぼくがどれだけ走っても、たどり着けない場所があることだって。
最初から放棄して、ぼくは何もせずに、勝手に立ち止まっていることだって。
ぼくは小さな頃から、心の奥底で、全部分かってた。
けれど、二人の約束を、信じていたかった。それでも信じていたかった。
ぼくの心の支えを、二人の笑顔を、あの幸せだった日々を、
どうしても信じ続けていたかった。
だからぼくは、ひっそりと隠れて、ありもしないとわかっている未来を待った。
待ち続けた。願って、願い続けた。
そして結局、叶わなかった。
それは小さな願いだった。小さな幸せだった。
たった一枚の写真に詰まった、何の変鉄もない、どこにでもある些細な風景。
たった、小さな小さな、幸せ。
笑顔のパパとママと一緒に、同じ場所で、同じ幸せな日々を暮らす、たったそれだけの。
「もういい」
ぼくは繰り返した。
「もういいよ」
だってもう、叶いはしないから。
願うだけ、きっと辛いだけだから。
ぼくは目を閉じた。
暗闇の中で、小さなぼくは、パパとママと一緒に笑っていた。
「もういいのかい」
目を開けた。
夕闇に彼の青と緑が見えた。
彼が身を屈めて、ぼくの顔を覗いていた。
目が合うと、彼は体を起こして、また言った。
「それでオマエは、もういいのかい」
彼は笑っていた。
沈みかけた鈍い夕日を反射して、その光はもう鈍っているはずなのに、彼の瞳はまた、ちかりと輝いた。
まるで鍵を開けるみたいに。
「言ってみろよ。オマエの本当に行きたい場所を」
捨て去った希望を掬い上げるように、彼は、優しく笑っていた。
家に帰ると、ママはもういなかった。
仕事の呼び出しだ。
そちらの仕事が終わり次第すぐに、明日には撮影に向かうので、家には帰れないということだった。
ぼくは寂しがったり、怒ったりしなかったが、喜びもしなかった。
ただ、そう伝えてくれたエラに「分かった」とだけ言った。
次の日に、ぼくはソニックと一緒に、ママが仕事している撮影現場に向かった。
本来は飛行機を二本乗らないと行けない場所だったが、ソニックの音速の足を使えばひとっとびだった。
ぼくを担いで走らなければいけないソニックは、相当の労力を要しただろうけど、ソニックは何の文句も不平も言わなかった。
彼は、ぼくが目を合わせただけで、どこへ行くのか、何をしてほしいのか、
一瞬で理解し、返事無く了承してくれたのだった。
現場に到着したぼくらは、撮影場所から少し離れた、撮影セットのアパートの屋上に、隠れるようにした。
そこから少し遠くに、小さく見える撮影スタッフや役者、その中にママの姿があった。
ママは演技の真っ最中だった。
わが母親ながら、それは素晴らしい演技だ。
しかし、演技に集中した彼女は、こちらには全く気が付かない。
「いいのかい、会わなくて」
一歩後ろで撮影を眺めていたソニックが、ぼくに声をかけた。
ここから人が集まっているところまでは、彼に頼めば、
いや頼まずとも、数分歩けば会える距離だ。
ママなら、仕事中であっても、はるばる会いに来てくれたぼくを熱いハグで歓迎してくれることだろう。
分かってる、ママはぼくを愛してくれていること。
でもぼくは、屋上の少し高く作られた縁に両腕を預けて、その風景を眺めるだけだった。
「いいんだ。今はまだ」
ぼくは短く返した。
ここへはぼく自身の力だけで来たわけじゃない。
彼の力を借りている。
知人や親しき友であっても、これは自分以外の力を使ってたどり着く場所じゃない。
そうあるべきじゃないと分かっている。
けれど、ぼくがそれでもここに来たのは、隠れた理由がある。
今はまだ、ひっそりと、隠しておきたい理由。
でも、そう、隠れるだけではきっと、それこそ意味がないんだって。
「先は長そうだな」
「うん」
彼が、もういいかい、と尋ねて、ぼくに教えてくれたから。
「でも、いつかはきっと」
だから今は、まだだよ、って。
家に帰ると、エラとエミーがアップルパイを作って待っていた。
エミーに彼女のアップルパイを食べることをなかば脅迫・強要されたソニックは、
ありもしない用事を作り上げて、彼女が頬を膨らますのを横目にさっさと彼女から逃げていった。
「もう、ソニックにはもうアップルパイ作ってあげないもん!」、そんな光景も、今となっては日常茶飯事だ。
研究室では、チャックとテイルスがトルネードの調整を行っていた。
二人はすっかり仲良しだ。
チャックにとっては、テイルスは唯一メカの話をできる相手だ。さぞ毎日が楽しいことだろう。
「お帰り、クリス!」、そこに顔を出せば、二人がぼくの帰りを喜んでくれる。
庭に行けば、クリームとチーズが花冠を作っていた。
色とりどりの花に囲まれて、彼女たちはとても楽しそうに花冠作りに勤しんでいた。
ぼくが声をかけると、「クリスさん、お帰りなさい!」と花冠をぼくにくれた。
小さな手で作られたそれは、とてもきれいに編み込まれ、見事なものだった。
「もうすぐもう一個出来ますから、それはソニックさんに渡して下サイ!」、彼女は幸せそうに笑って言った。
楽しい日々。
幸せな時。
ぼくの、少し寂れていた心を、少しずつ、癒してくれる毎日。
今は彼らが、ぼくの寂しさを塗り潰してくれる。
そんな日々もいつかは終わってしまうのだろうけれど、
その時までには、きっと。
だから今はまだ、ぼくはひとりのかくれんぼを。
「待ってよソニックー!」
青い風が吹いたから、ぼくはクリームに貰った花冠を丁寧に、でもしっかりと握って、ぼくは彼を追いかけた。
12 11 23 Sat.
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